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【無料動画】倫敦(ロンドン)ノ山本五十六の見逃し配信と無料視聴方法!香取慎吾主演!

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【無料動画】倫敦(ロンドン)ノ山本五十六の見逃し配信と無料視聴方法!香取慎吾主演!

NHKで放送された香取慎吾主演ドラマ「倫敦(ロンドン)ノ山本五十六」の動画を見る方法やあらすじやネタバレ、見逃し配信や再放送の無料視聴情報などを紹介したいと思います!

ハムレット
このドラマ「倫敦(ロンドン)ノ山本五十六」は、今月、太平洋戦争から80年となるのにあわせてお届けする、特集ドラマで真珠湾攻撃の作戦を指揮した海軍提督・山本五十六の、知られざる物語です!

新発見の極秘文書に基づき、国民から「英雄」と呼ばれるようになる以前、海軍という組織の中でもがき続けた、新たな“山本五十六像”に挑みます。

また香取慎吾さんがご結婚を発表されたことからも大いに話題です!

だからこそ、ドラマ「倫敦(ロンドン)ノ山本五十六」を何度も見返しながら楽しみたいですよね?

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ドラマ「倫敦(ロンドン)ノ山本五十六」のあらすじ・ネタバレ

香取慎吾が挑む新境地!海軍軍人・山本五十六の「知られざる真実」を描く実録ドラマ。後に真珠湾攻撃を立案し太平洋戦争を始めた山本は実はその7年前、戦争を回避すべくロンドンでアメリカ・イギリスと対峙(じ)していた。決裂すれば戦争につながりかねない軍縮交渉。山本はぎりぎりの交渉を続けるが軍上層部からは「結論ありき」の交渉を命じられ…。優先するべきは国民の命か国家の誇りか。苦悩の末に山本が下した決断とは!?

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ドラマ「倫敦(ロンドン)ノ山本五十六」のキャスト

香取慎吾 役:山本五十六

本作の主人公。太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃の作戦立案・指揮を行った海軍将校。ロンドン軍縮会議の予備交渉では、海軍の首席代表を命じられる。

香取慎吾のコメント

大河ドラマ「新選組!」以来17年振りにNHKのドラマに出演させていただきます。時代を背負い、背を正し、視聴者の皆様にその瞬間をお届けできるように、この役としっかりと向き合いたいと思います。

高良健吾 役:富岡定俊

海軍軍人。終戦直後の東京で、海軍の公文書を収集する中、山本五十六に関する極秘文書を発見する。

高良健吾のコメント

台本を読んで、とてもいい役を頂けたと思いました。演じることで、戦争という人間が幾度となく犯してきた大きな過ちを物語として世に投げかけることができるのは、この仕事を選んだ者としてやりがいがあることの一つです。精いっぱい自分の役割を全うしたいと思います。

片岡愛之助 役:堀悌吉

山本とは海軍兵学校の同期であり、親友。軍備拡大を求める風潮が強まる海軍にあって、山本に「戦争を避けることの重要性」を説き続ける。

片岡愛之助のコメント

大河ドラマ「麒麟がくる」でご一緒させていただいた大原監督にお声がけをいただいたこと、そして香取慎吾さんとドラマでは初共演、うれしいことばかりです。私が演じる堀は、映画で坂東三津五郎兄さんが演じられていました。そのことにもご縁を感じます。海軍で理想を追い求める五十六と断固戦争反対の堀。立場は違えど、互いに日本を思い、信頼し合い、熱く語り合う。そんな二人を表現できたらと思っています。

國村隼 役:松平恒雄

外交官。駐英大使として、山本とともに交渉に臨む。山本の相談相手として精神的な支えとなる。

國村隼のコメント

日本が第二次世界大戦に至るまでの道筋を、新しく見つかった資料に基づき、興味深く描かれています。私が演じるのは欧州事情に明るくグローバルな視野を持つ人物ですが、五十六と共に軍縮会議で本国と板挟みとなり苦心の日々を過ごします。ご覧になった皆様も緊迫のやり取りを追体験して貰いたいと思います。戦争の記憶が薄れていく今こそ描かれる意味の有る作品なのではと思っています。

渡辺いっけい 役:大角岑生

海軍大臣。
軍縮反対派。海軍内で軍縮を支持する一派を追放する人事を行った。

嶋田久作 役:伏見宮博恭王

軍令部総長。
皇族出身の軍人で、海軍の作戦を統括する軍令部のトップ。

中村育二 役:長谷川清

海軍次官。
海軍省のナンバー2。

市原隼人 役:岡新

海軍軍人。
駐英武官として、山本とともに予備交渉に参加した。

平岩紙 役:山本礼子

山本五十六の妻。

景井ひな 役:正木美子

山本家の女中。

伊武雅刀 役:加藤隆義

軍令部次長。
日本が軍縮条約を結んだ当初から、条約に反対する姿勢を鮮明にしていた。

山本學 役:高橋是清

政治家で前大蔵大臣。
軍事予算の抑制に努めたことで軍部の恨みを買い、1936年の二・二六事件で暗殺された。

【脚本】古川 健のコメント

戦前戦中の調べ物をしていると、ふと山本五十六という高名な人物の足跡が書籍から立ち上がってくることがあります。そのたびに、この一筋縄ではいかぬ五十六という男に思いを馳はせてきました。今回の物語は、今まであまり光のあたっていない時期の山本五十六を描いています。描く事柄の複雑さに頭を悩ませながらも、知ることのなかった五十六の苦悩や挫折を描いたつもりです。五十六という人物が抱えた、切実な想いが伝わればうれしいです。

【演出】大原 拓のコメント

「過去を描くのではなく、未来を描きたい」
山本五十六という軍人を描くドラマではなく、山本五十六(過去)を通して、現代や未来を考えられるドラマであるという観点を大事に作っていきました。私にとって分かりやすい未来とは、子どもであり、その笑顔です。自然な何気ない笑顔がある未来を紡いでいくのは、大人の責任でもあるとよく考えます。今回明らかになった文書に記された山本五十六の姿から個人的に感じたことは、未来と向き合った人ということでした。これをヒントに、ドラマの演出ベースが出来上がりました。

「スーツを着た山本五十六」

軍服ではなくスーツ姿で、武器を持たない戦争に臨む山本五十六。山本五十六モノとしては、とても珍しく新鮮な姿です。もちろん、史実を反映した結果なのですが。そんな山本五十六を、香取さんは、淡々と思慮深く演じています。そして、とてもストイックに抑制を効かせた感情やたたずまいは、新たな五十六像を作り上げると共にこの時代の緊張感や不穏な空気を生み出しています。特に見どころは、五十六と堀(片岡愛之助さん)とのラスト。二人の醸し出す空気感は、本当にすてきで、演出できて良かったというシーンでした。そして出演者の息を飲む芝居の連続、これまでにない五十六と香取さんの姿、ぜひお楽しみください。

「山本五十六は何を思い、ロンドンに向かい、そして離れたのか」

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「山本五十六」について

「山本五十六」は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。旧姓は高野。栄典は正三位大勲位功一級。

1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。当時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。母親も45歳と高齢だった。子供の頃から負けず嫌いで、小学生時代、「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだした。息子の山本義正によれば、少年時代の山本は米国宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるという。

長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業。中学生時代に10歳年長の甥である高野力が病死し、その際の両親の「五十六が力に代わって立派な武士(軍人)になってくれれば」という言葉が五十六のトラウマとなった。故に軍人を目指し、既に「武士の家の子は武士になる」と語っていた。五十六の海軍兵学校志望は、叔母が嫁いだ野村貞から海軍の話をたびたび聞いていたのと、兵学校を目指したものの病弱では無理と諦め結局病没した高野力の影響が指摘される。

1901年(明治34年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入校。同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。在学中に堀悌吉と親友になった。日露戦争中の

1904年(明治37年)11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業。卒業時に教官より「もっと喋れ」と注意され、自身でも「温にして直」と戒めている。少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する。

1905年(明治38年)1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加する。この海戦において、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。原因は、公式記録や五十六本人の手紙によれば「敵砲弾の炸裂」とされているが、旧海軍関係者間からは「日進」の前部砲塔における砲身内早発(膅発)である可能性が指摘されている。負傷時に着用していた軍服は、太平洋戦争勃発直前に故郷の博物館に寄贈された。左腕切断の可能性もあったが回復した。

その後防護巡洋艦「須磨」に5か月、戦艦「鹿島」に5か月、海防艦「見島」に4か月、駆逐艦「陽炎」に4か月と、各艦に勤務する。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生として16か月間、海軍水雷学校普通科学生として4か月の教育を受けた。卒業後、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)「宗谷」に配属となる。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導した。

1909年(明治42年)にアメリカに駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。井上成美によれば兵器学講座担当であったという。

1913年(大正2年)12月、海軍大学校に入学する。同期生に阿武清、有馬寛、出光万兵衛、秋山虎六などがいる。在学中の1915年(大正4年)、牧野忠篤の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。海軍省に対する山本家への入籍および改姓届出は同年9月20日付。

1916年(大正5年)12月、海軍大学校を卒業し、第2艦隊参謀に補されたが、着任した直後に腸チフスに罹患した。さらに、腸チフスの療養中に発症した虫垂炎が悪化して生命の危険に陥り、数時間に及ぶ大手術により一命を取り止めた。その後、故郷長岡で1917年(大正6年)年6月頃まで療養した。姪で看護師の高野京が看病をした。回復後の1917年(大正6年)7月、海軍省軍務局員を務めたのち、海軍教育本部第一勤務となった。この頃、友人から紹介された三好礼子に一目惚れし、見合いを経て8月31日に結婚した。

1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在を受命、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。アメリカに駐在する前の1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に戻った1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った。

アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている。日本では専売指定されていた砂糖と塩でさえ、アメリカでは、ともにプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることをワシントンD.C.の喫茶店で身をもって知り、彼我の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えている。

このアメリカ滞在時に駐米海軍武官の上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)より受けた指導と視察、研究の影響が、航空機の活用に着目するきっかけになった可能性がある。

1921年(大正10年)7月19日に帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる。1年後、海軍大学校教頭に山本英輔が着任し山本五十六の航空機観に影響を与えた。1922年(大正11年)、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察した。ロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は動揺する周囲に対し「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている。

1922年、ワシントン海軍軍縮条約で八八艦隊計画により建造されていた長門型戦艦二番艦「陸奥」が問題となり、それに対抗してアメリカがコロラド級戦艦三隻、イギリスがネルソン級戦艦二隻を建造したことに関して「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしすぎた」と皮肉を言っている。

海軍省副官あるいは元帥副官の話が持ち込まれていたが、五十六の自身の希望と、山本英輔の推薦により、砲術から航空へ転科し、1924年(大正13年)9月、霞ヶ浦航空隊付、12月に教頭兼副長に補された。五十六は三和義勇(副長付)から航空機の操縦を学び、後に日本海軍の航空発展に深く関与するようになった。霞ケ浦空教官兼分隊長城英一郎大尉は、山本について、公私分別、操縦感もよく、適材適所に使い、情義厚く、航空隊内では山本は偉くなるぞと評判であったと日記に残している。山本はまず教頭兼副長を副長兼教頭に改め、三和に「当隊の軍紀風紀を刷新し遅刻、脱営者を皆無にするから補助しろ」と言った。また壇上で「下士官、兵にして頭髪を伸ばしている者はみんな切れ。一週間の猶予をやる」と指示した。三和義勇によれば山本は脱営者の見回りのため自身で率先して巡検していたという。

1925年、日本初の空母「鳳翔」が完成すると、優秀なものを配員すべきという意見があったが、山本は「そんな母艦はいらない。大多数が使えねばならないので中級者を回し訓練を改善し努力いかんによるべき」とした。

1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する。山本の航空隊在任は1年3か月であったが、「天洋丸」に乗船してアメリカに向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った。

この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。

1927年(昭和2年)8月24日、美保関事件で軽巡洋艦「神通」艦長・水城圭次が自決した際、駐米武官・伊藤整一が「死んでは意味がない」と述べたところ、山本は「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ」と叱りつけている。

1928年(昭和3年)3月に帰国後、8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務め、水雷学校での講義で将来の海軍は航空主兵となること、対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべきと発言している。4ヵ月後に多段式空母「赤城」艦長に就任。着艦に失敗しそうになった飛行機に自ら飛びつき、山口多聞中佐らと共に飛行甲板から落ちるのを防ぐなど航空に全力を注いだ。佐官時代は愛煙家だったが、空母「赤城」艦長時代、航空機搭乗員が禁煙を宣告されたが無視していると、山本は「私も煙草は好きだが、日本の為だ。君ばかりに止めてはおかぬ」として禁煙を宣言した。それ以来、山本は煙草を吸わなかった。

1929年(昭和4年)11月、海軍少将に進級すると共にロンドン軍縮会議に次席随員として参加した。海軍随員であった山本と山口多聞は軍縮案に強硬に反対、日本側代表は混乱した。最も強硬に対米7割を主張し、首席全権の若槻禮次郎を困らせ、大蔵省から派遣された賀屋興宣が、財政面から軍備の大きい負担には堪えられないという旨の意見を言おうとした際には「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」等と怒鳴りつけて賀屋を黙らせたとも言われる。賀屋は、山本について「聞き上手で話やすい人。真に度胸のある、正しい素直な人。いつ論じ合っても後味の悪い事がない」と語っている。

この軍縮条約を巡って海軍内に艦隊派と条約派という派閥争いが生じ、山本を含めた海軍の人事に大きな影響を与え、この一件が、山本が艦隊派から同志であると受け止められた一因となり、山本出世のきっかけにもなった。結局、外交団代表は山本の意に反して軍縮条約に調印。海軍士官学校同期生(第32期)クラス会で、山本は「適任ではなかった」と予備交渉における苦悩を語っている。失意の山本が海軍を辞めるという噂さえ流れた[64]。だが山本は立ち直り、軍令部次長・末次信正に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである」と進言した。

1930年(昭和5年)12月、海軍航空本部技術部長に就くと航空主兵を強力に推し進めると同時に、未熟だった日本海軍航空機の発展に尽力した。外国機の輸入と研究に積極的であったが「外国機の輸入は我航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学の試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え」と技術者達を激励している。1932年(昭和7年)、山本は海軍航空機の条件として、国産、全金属、単葉機の3つを掲げた。複葉機から単葉機への移行中に単葉機の速度が増え着艦距離が延びることが問題になったが、山本は母艦発着甲板の方を長くせよと指導した。

1933年(昭和8年)夏、柴田武雄によれば、横須賀海軍航空隊(横空)研究会において、日高実保(大尉、海兵50期)が雷撃訓練に対空砲火や敵戦闘機の妨害の概念を取り入れるよう主張し、遠距離での発射を見越した高々度高速発射砲や魚雷の改善を求め、続いて柴田大尉が戦闘機の機銃の射程延長と照準器や兵器弾薬の発明の必要性を訴えると、山本が立ち上がり2人の意見を言語道断と否定し、「そもそも帝国海軍のこんにちあるは、肉迫必中の伝統的精神にある。今後、1メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは絶対に許さん」と叱責したという。柴田は「上に山本のようなわけのわからないのがいると必ず負ける、歴史を無視した精神偏重で、戦闘機や技術開発に努めるべきだったのに山本には能力も英知も欠けていた」と批判している。

同年10月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」に座乗した。故郷長岡の希望者22名を「赤城」に招き、自ら艦内を案内したこともある。

1934年(昭和9年)「赤城」の第一航空戦隊研究会で横空分隊長・源田実大尉は、敵の航空母艦を先制制圧するために急降下爆撃機を善用すること、航続距離の延伸、操縦性の軽快さ、戦闘機としての流用等を考慮した「単座急降下爆撃機」を考案して、戦闘機と攻撃機の半数ずつをこれと入れ替える意見を出した際、山本は源田の言うように飛行機は攻撃に使用すべきであるとしつつ、航法上の安全性からやはり二座になると却下した。

同年9月「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで真珠湾とマニラを空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの戦争はやって見せる」と駐米大使・斉藤博に語ったとする主張がある。実際には、当時は真珠湾という日本語は存在せず真珠港と呼んでいたし、アメリカ海軍は真珠湾ではなくサンディエゴを拠点としていた。

9月20日、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として日本を離れた。対米強硬派の軍事参議官・加藤寛治は「…見送盛也、但シ山本少シク上ボセ気味、大ニ托スルニ不足…」と日記に書いている。山本は政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し、列強交渉団と互角に渡り合う。

ただし、「戦艦・空母の全廃」は会議の決裂を日本政府が意図したものであり、山本が出発する直前の9月7日にワシントン海軍軍縮条約の破棄が決定している。このような状況の元で欧米と交渉中、同期の親友・堀悌吉が予備役に編入される大角人事があって山本は気力を失い、またアメリカも条約締結について冷淡であり、結局予備交渉は中断した。堀への手紙で山本は日本の対外強硬論への不満と苛立ちを語り、また愛人への手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境を明かしている。ロンドンからかつての部下へ宛てた手紙には「英米を叩頭せしむるの日必しも遠からざるか如く被感候 海軍としては何はともあれ航空の躍進こそ急務中に急務なり」と書いた。

ロンドンから帰国直前の1935年1月、日独間の親善のため山本をベルリンでヒトラーに面会させること、ソ連を対象にした日独提携に日本が同意するかどうかを探ることを任務としたリッベントロップの命によって、ドイツ技術の日本への移転に大きな役割を果たしていたシンツィンガー・ハック商会の設立者でハインケル社の代理人、日独協会理事のフリードリヒ・ハックの訪問を受けた。山本はヒトラーとの面会を了承したが、松平恒雄駐英大使や武者小路公共駐独大使が、日本海軍高官がヨーロッパで孤立するドイツのトップといきなり会うことを危惧したため実現しなかった。山本はベルリンでリッベントロップやエーリヒ・レーダー海軍統帥部長官や日独協会会長のパウル・ベンケ提督らと会談した。1934年末にはハインケル社と日本海軍の間に急降下爆撃機の技術売却交渉が始まっており、交換条件として航空母艦赤城の技術提供をドイツ海軍が要望していた。急降下爆撃機の技術導入は空母艦載機の攻撃能力一新がかかった重要課題であり、九九式艦上爆撃機の完成に結実した。また、赤城の技術情報を得たドイツ海軍は空母グラーフ・ツェッペリンの建造に着手、1938年12月進水式を行った。日独間の対ソ提携の件はその夏以降、駐独陸軍武官の大島浩とリッベントロップの間で進められることになった。

1935年(昭和10年)2月、シベリア経由で日本に帰国、東京駅に降りた山本を海軍大臣・大角岑生、外務大臣・広田弘毅等が出迎えた。山本は海軍を辞める意思を持ったが、堀に慰留された。山本はしばし故郷長岡で休養し、母校の学生達と交流する。第二次ロンドン海軍軍縮会議に赴く軍事参議官・永野修身から随行するよう要請されたが、先の予備交渉で懲りた山本は固辞した。

4月に故郷長岡の阪之上小学校で演説を行い、日本人として重要な恩として「天皇の恩、親の恩、師の恩」を挙げ、「世の中に立って、国の為に尽くすことが、先生に対する生徒の、第一の恩返しになる」と語っている。

12月、海軍航空本部長に任命される。横山大観から絵の呈上の申し出があった際には、全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なしと述べて断っている。空軍独立論について、山本は陸軍が主導権を握ることを懸念して強硬に反対した。のちに太平洋戦争の島嶼戦において、陸海軍航空隊との指揮権を統一する提案が出た際も、一貫して反対している。海軍航空本部総務部長を務めていた時、直接の部下だった草鹿龍之介が山本のための機密費・接待費の捻出に苦労していることを知ると、山本は自ら海軍省と交渉に乗り出して金500円(当時価格)を獲得し、草鹿に渡している。航空本部長時代、手相骨相鑑定家の水野義人を海軍航空本部嘱託に採用し、山本は航空搭乗員採用試験の際に応募者の手相・骨相を鑑定させ、採用・不採用の参考としている。

この頃、欧米列強は新世代戦艦(ポスト条約型戦艦)の開発・建艦を一斉に開始し、日本も大和型戦艦の建造計画をたてる。山本は航空本部教育部長・大西瀧治郎大佐と共に反対論を唱え、艦政本部と対立した。山本の航空主兵論と艦政本部長・中村良三大将の大艦巨砲主義論の対立は結論が出ず、軍令部総長・伏見宮博恭王の仲裁で、翌年7月に高等技術会議で大和型2隻の建造が決まり、③計画における3万トン級正規空母(翔鶴型航空母艦)2隻の建造も決まった。山本は「砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破せられるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる」と反対し、大和型戦艦建造に携わった福田啓二によれば、山本は福田の肩に手を置き「どうも水を差すようですまんがね、君たちは一生建命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなると思う」と語った。福田は不沈艦は無理でも沈みにくい船を作ると反論した。また、山本は九六式陸上攻撃機など攻撃機の量産で航空戦力の攻撃力を強化したが、大西瀧治郎と共に攻撃力にならない戦闘機を軽視したことで、戦闘機無用論者と見なされている。

1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った侍従長・鈴木貫太郎のために医者を手配している。総理大臣・岡田啓介の救出にも米内光政と共に関わった。二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日、永野修身が海軍大臣を辞任する際、山本は米内を後任として推薦している。

同年11月の長岡での講演会では、海軍を辞めたのち長岡で青年の教育を行う夢を語っている。

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・いだてん~東京オリムピック噺~
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